2018年4月2日
Week1

新年度になりました。進級・進学・就職おめでとうございます。
 
四月一日を起点として、三月三十一日までの期間を一年とする「年度」という考え方が、子どもの頃はどうしても理解できませんでした。だから「明日から○年生になるんだよ」という言葉は、少しもピンと来たことがありません。その僕が、つい先日まで「あともう少しで三年生になるんだよ」と、担任する二年生の子どもたちにに言っているのですから、おかしいですね。
 
「年度」というものをはっきりと意識するようになったのは、実は働き始めてからのように思います。そして今はそれを上手く扱えるようになろうとしている真っ最中であると感じています。

「年度」という言葉のすぐ近くに、「計画」とか「見通し」という言葉が想起されます。つまり、「年度」というものを意識するようになったのは、その期間で「何をしようか」ということを考える側に立ってからだと言えます。
 
これまでの三年間は、「計画」や「見通し」の甘さを痛感し、猛省する日々でした。「甘さ」というよりも、それらの持ち方について少しも分かっていなかったというほうが適当かも知れません。目の前のことに振り回され、右往左往している間に、ある時、はたと「迷子」になっていることもしばしばありました。
どういう時期に、どういった材と出合わせ、そこからどういった態度や見方を育んでゆくのかということについて、僕はあまりに知らないことが多すぎたように思います。
 
そこから数日の時間しか流れていない今もまだ僕は何も分からずにいるのかも知れません。でも、今はできる限りの「計画」と「見通し」を拵えることに専念する他ありませんね。そういう意味で、ここ最近はずっと未来のことばかりを考えています。
 
未来のことを考えるためには、過去の自分と今の自分が繋がっているという感覚が必要です。それは他の多くの動物たちと人間を分けている一つの大きな特徴の一つなのではないでしょうか。ということは、未来のことを考えることそれ自体が、とても「人間的な」ことと言えるのかも知れません。
 
それと同時に僕には「今ここ」にある感覚を持っています。それは他の多くの動物たちと等しく持っている特徴なのではないでしょうか。ということは、今ここにあるということそれ自体は、とても「動物的な」ことと言えるのかも知れません。
 
学校という場所は、社会という「人間的な」ところへ向かっていくための場所です。なので、そこで営まれる物事は「人間的」である必要があります。計画をしたり、見通しをもってみたり、それに向けて協力したり、協働したり。そういうことを考えながら、「年間指導計画」というものを拵えています。
一方でそこにやって来る子どもたちも、携わる大人の一人ひとりも、「今ここ」の感覚で生きています。調子がよい日もあれば、調子の悪い日もある。機嫌がいいときもあれば悪い時もある。いつも同じ調子で淡々と生きている人は一人もおらず、よかったりダメだったりしながら、その日暮らしをしています。そういう人たちが関わり合って歩む道程として、「年間指導計画」というものを拵えています。
 
大きな話をしています。でも、そういう大きな話をしながらでないと、小さな話ができないことってありますよね。年間指導計画に関する教育関連の資料の傍らに、文化人類学やら何やらの書物が並んでいるところが、2018年度も、相変わらずの僕らしいところだなと思います。