2017年8月8日
先立つ予定に引っ張られることで、今に〈張り〉が生まれる

前もって自分の授業スケジュールを計画して、職員の目につくところに掲示する。
1学期の半ばから試みているものですが、これは本当にやってよかったです。
 
おかげで多くの先生方が、僕の授業を見に来てくださいました。
良いところにせよ、悪いところにせよ、他の人に見てもらうことで明らかになることはとても多いですね。
 
掲示するためには、自分の授業スケジュールを早い段階から具体的にしておかなければいけません。
自ずと教材研究は丁寧になり、そこで授業の〈下地〉が出来上がっていきます。
また、現在取り組んでいる単元の計画についても、同じ効果が出てきます。
「次の単元でこういうことをやりたいから、今の単元でこういう指導を計画してみよう」という具合です。
 
「掲示する」というのがミソなんでしょうね。
「見に来てくださいね」というわけですから、準備の質も変わってきます。
 
2学期のはじめに、ちょっと時期外れですが、「お手紙」の単元を計画しています。
これも夏休み中に計画を立てて、カレンダーにまとめて掲示しようと思います。
ここで宣言してしまった以上は、俄然やらないといけませんね。やりますよ。
 
今の僕は、いろいろな人に授業を見てもらいたい気持ちがむくむくと湧いています。
同僚の先生方や外部の先生方、そしてクラスのご父兄にも足を運んで見てもらいたい。
目の前の子どもたちは「今、どのように学んでいるのか」ということを、いろいろな角度から検証したいのです。
授業を見たい、そこから子どもの学びを一緒に考えたいという方は、いつでも気軽にご連絡ください。
 
そうそう。「計画」ついでに話をすると、2学期以降は研究計画を立案して、助成金の申請を目標にしてみようと思っています。
助成金の申請をするとなると、自分の研究計画を実現可能なところまで、か・な・り具体的にしなければなりません。
えらいこっちゃ、なわけですが、上記の理屈で行くと、これをやることで自分の研究もぐーっと洗練されるのではないかと思うのです。
仮に助成金に通らなくても、それをやったかどうかが、その後の仕事の質がずいぶん変わるような気がしています。
そう、別に審査に通る必要はないんです。その審査に向けて出来る限りの準備をしてみようじゃないか、というのが、今の僕の目標です。
うん、おもしろそうじゃないの!
 
心穏やかにお過ごしください。今日の佳き日に。

2017年8月7日
芸術家は、僕たちと社会の〈接合点〉、その出会いと交流の場を創造する

ここ最近、新しい劇場の報せがぽつぽつと続いています。
 
例えば、若葉町ウォーフ
古いビルを改装して誕生した、宿泊施設付きの「ご町内のアートセンター」です。
人が集い、語り合うための場。平田オリザさんの言うところの「広場」とイメージが重なります。
実は来年3月末に、この場所で宿泊付きのワークショップをする予定です。
どんなことをやろうかな。
 
もうひとつ。富士フルモールド劇場。
富士市にある鋳造工場をリノベーションして、富士市唯一の劇場を立ち上げようというプロジェクトです。
こちらの仕掛け人は大学の後輩の山田カイルくん、長谷川皓大くん。
才気煥発という言葉がぴったりの、新進気鋭の芸術家です。

東京からも、京都や大阪からも、地元からも、アーティスト、批評家、将棋好きのおっちゃんなど、あらゆる年齢の市民が集う場所ができたとき、富士市は「通過点」という役割を超え、東海道のフリンジカルチャーの、中心地となるのです。

富士発のフリンジカルチャー。地理的にも文化的にも、非常におもしろそうです。
このプロジェクトは、今年9月のこけら落としに向けて、クラウドファンディングに挑戦中です。
僕も一私人として応援したいと思っています。おもしろそうだなと思った方は、是非彼らの挑戦に力を貸してください。
発電所と工場の町・静岡県富士市に劇場を作りたい!
 
こういった動きは、これからも大小さまざまな形で、次々と生まれていくでしょう(僕はそうあってほしいなと思います)。
今後、みなさんの身近で似たような話を耳にしたときは、「どうして、そういうことをやろうとするのだろう?」というところも気にしてみてください。
そこにはこれまで〈目に入っていなかった〉人や地域や社会についてのさまざまな問題と、それに立ち向かう思想と提案と行動が見て取れるはずです。
芸術家と呼ばれる人たちにとっての〈本分〉。それは僕たちと社会の〈接合点〉、その出会いと交流の場の創造にあると思っています。
 
心穏やかにお過ごしください。今日の佳き日に。

2017年8月5日
子どもは大人の断片のブリコラージュである

二年連続、二回目の佐渡島への引率から戻ってきました。
今夏も晴天に恵まれて、予定通り全日程を終えることができました。
与論島に向かった別の班は、台風の接近に伴い、予定を早めて東京に戻ったそうです。
天気だけはどうにもならないとはいえ、とても残念ですね。
 
この6日間、27名の子どもたちと寝食を共にしてきました。
子ども「たち」と過ごす時間は驚きと発見の連続です。
子どもではなく、子ども「たち」。
一人の子どもと接するのと、子ども「たち」の集団と接するのでは、やはりずいぶんと違いがあると思います。
良いことも、良くないことも、子ども「たち」はいつも〈おもいきり〉ですから、見ていてハラハラドキドキします。
 
ちょうど昨日、糸井重里さんが「ほぼ日刊イトイ新聞」で、三谷幸喜さん作・演出の舞台『子供の事情』について書いた記事の内容と重なる思いがありました。子どもは大人の断片のブリコラージュ(寄せ集め)である。ただし、いかに知識や身振りを「大人の断片」で作ったところで、それを下支えする心はとても繊細で薄い皮膚のようなものでしかない。―原文が参照できないため、恣意的に書かせてもらいましたが、おおむねこういったことについて書かれてあったと思います。
 
小さな大人というよりも、「大人の断片のブリコラージュ」と言ったほうが、確かに子どもたちの実態をよく表しているように思われます。
自分の身近にいる大人の思想や行動を寄せ集めるようにして、子どもたちは世界とコミュニケーションを図ります。
それが上手にはまっているときは「大人びている」と言われるのかも知れませんし、うまくはまらないときは見ていて「ちょっと危なげだな」と思われるのかも知れません。もちろんほとんどが後者だと思います。

そういった「ちょっと危なっかしい」コミュニケーションの連続が、子ども「たち」の送っている日常です。教師という仕事のすぐ近くには、そんな世界が広がっているということを忘れてはいけないなと思うのです。
寝食を共にするような「引率」という役割の後は、そんなことを考えています。
 

「長く感じられる一瞬のあいだだけ、世界がかれらを抱きしめてくれるような気がしたのだった」
エイミー・ベンダー「癒やす人」より

 
心穏やかにお過ごしください。今日の佳き日に。