熱っぽさ

 季節外れの日差しの中にいたせいか、夜になっても熱っぽい。直前に食べた天ぷらそばのせいかも知れない。暑い暑いと言いながら、体を冷やしてはいけないと思って頼んだものだった。
 こうなってしまっては仕方がない、と思うより早く、足は帰路へ向かうことなく散歩道へと進んでいった。日が沈んでしまえばさすがに秋。涼しい風は火照った体にちょうどいい。おもむろにイヤホンを取り出して、Joan Pabro Vegaのアルバムを再生する。体を吹き抜ける風に音がつけられたような気分。秋の夜はこういう音楽がいい。
 ブラックミュージック系のポップスが脚光を浴びる音楽シーンの中で、こういう黒くないポップスと出会うのは案外むずかしい。2年ほど前にMonseieur perinéというジプシー・ジャズ・バンドに出会ってから、コロンビアのアーティストを好んで聴くようになった。彼もまたその一人で、スペイン語が一切分からない僕は、彼の楽曲の色気だけをひたすら貪っている。
 
 ところで、どうしたものか。今日ほど子どもたちの顔がくっきりと思い出される夜は珍しい。その一つひとつの表情を今、目の前で見ているかのように鮮明だ。
 川沿いの道を歩きながら、おそらくそれも太陽のせいだと思い至った。ここ数日の秋らしさは砂上の蜃気楼だったのかと思うほどの酷暑。子どもたちは日中のほとんどをその中で過ごさなければならない一日だった。何を恨もうにも、この日差しの他になく、ただただどうしてこんなに暑いのかと呪うばかりだった。
 とはいえ、これだけの晴天を逃す手はなく、予定どおり行う他ないのも事実だった。できる限りの準備をして、子どもたちに万一のことがないように細心の注意を払う。うつむきがちの子、顔が火照っている子、いつもより元気がない子。調子の悪い子がいないかと、一人ひとりの顔を覗き込みながら過ごした。経口補水液を片手に、いつでも差し出せるように。大袈裟に言えば、命に関わるかどうかの仕事をしている気分だった。
 そういう時の「見る」とは、こんなにも強烈なものなのか。毎日見ているはずの子どもたちの表情が違った濃さで焼きつけられている。

 この体の火照りも、単に熱射だけに拠るのではないのかも知れない。子どもたちの息づかいとか、そういうものをあまりに多く受け止め過ぎてしまったのかも知れない。もちろんそれは決して嫌なこと、悪いものではない。何かが宿るような、そんな感覚だ。

 思い出されるままにいろいろな子の表情を浮かべていると、またしても体内の熱に火を点けてしまったような気になってくる。異国の楽曲のせいかも知れない。ともあれ、このまま帰路に着いてしまうと、今度は熱のやり場に困ってしまう。
 そういう時ははっぴいえんどで火消しにかかる。最近ではnever young beachという若い才能がその役を務めている。
 涼みながら汗をかき、道中で浮かんだ言葉をここに書きつける。そんな夜は久しぶりだ。