「亡国」から帰りました

過去半世紀という時の積み重ねにはそれなりの感慨がありますが、演劇というたえず変化する「いま」という時の中にだけしか存在しない表現にたずさわるひとりとして、むしろ次の半世紀への思いをいまさらのように切実に感じないではいられません。 (中略) 今回の舞台が、「自分はいまどこにいるのか 自分はいま何をしているのか」という問いかけを、観客席の皆さまと共にできることをこころから願っています。

座席に置かれた当日パンフレットの冒頭、本作の作・演出を務めた佐藤信さんの言葉だ。
「亡国のダンサー」もまた、この言葉のままに、〈「いま」という時の中にだけしか存在しない表現〉として、そして〈「自分はいまどこにいるのか 自分はいま何をしているのか」という問いかけ』の寓話として成立している。
 
主人公の「わたし」が幽閉された部屋は、巨大な建物の内部と思しき場所。
その建物は少なくとも、地上60階、地下14階程度の大きさを誇っていて、さまざまなプログラムによって制御された建造物である。
冒頭から「わたし」は自分が何者であるのかを疑われ続ける。
預けた運転免許証は偽物として突き返され、「暗証番号には生年月日を設定しておいた」と言われて手渡されたスマートフォンと覚しき端末も、暗証番号の認証エラーで開くことができない。
その後も、「わたし」が端末を操作するたびに執拗に「本人確認」を強いられる。100個に及ぶ「本人確認」の項目は、単なる「データ」の積み重ねが「わたし」を立証するものに何らなりえないというシニカルなジョークだ。
ようやく設定し終えた新しい暗証番号も、一度使うだけでリセットされてしまう。
その原因は、「わたし」のいる部屋は、巨大な建物のプログラム上には「存在しない場所」であるからだということが判明する。
その事実を知った「わたし」は、どうにか部屋を脱出するが、アテもなくふらついた挙句、元の部屋に帰りついてしまう。
 
また「わたし」を取り巻く人物も、「わたし」の存在を立証するようでいて、少しもアテにならない。
姉・弟・祖父と名乗る3人の男女(「わたし」の「姉・弟・祖父」という意味ではない)。「先生」と呼ばれる「証人」の女。
どちらかが真であればどちらかが偽であるという矛盾した関係を孕んだ人物たちは、結局「わたし」にとってどのような人物であったのかが最後まで明かされることはない。
 
こうして「わたし」は自らが今どこで何をしているのかが分からないままに死亡する。
これが他殺なのか、事故死なのか、象徴的な死なのかさえも判然としない。
まさに先述した信さんの『問いかけ』の寓話だ。
 
ただ、この物語は寓話でありながら、『「いま」という時の中にだけしか存在しない表現』としての文脈性も併せ持っている。
これを観る人たちは、どうしても私たちの暮らす日本の「いま」を参照せずには観られない。
例えば劇中に度々登場する「事故」という言葉。
これが一体どのような事故で、この建物や人物がその事故にどれだけ関係があるのかは、最後まで語られない。
そうした時に僕が真っ先に参照するのは日本の「いま」のコンテクストであり、それは他でもない「福島第一原発事故」のことである。
「2時間だけ元の部屋に戻ることが許された」という姉の発言からは、即座に「帰還困難区域」「居住制限区域」のことが連想される。
したがって、この建物のある場所に「フクシマ」が重なってくる。
また、劇中に何度も挿入される「乙巳の変」のコロスは、この世界が「ニホン」であることを強く意識させる。
これが「ニホン」で「フクシマ」であるとすれば、ここにある世界は「ゲンダイ」、「いま」である。
こうしていくつものコンテクストを巻取りながら、「亡国のダンサー」は編まれている。
 
「わたし」が死亡した後も、結局のところ、この建物でどのようなことが起きていて、それに関わった人たちが「本当に」何を企図していたのかはまるで分からない。途中で「乙巳の変」と似た構図で、理事長あるいはその「孫」の暗殺を匂わせる場面はあったものの、それでさえどこまで明確な計画であったのかははっきりとしない。
それどころか、ここに登場した人物はみな、自分の役割や目的を何ら理解しないまま行動していたのではないかとさえ思われてくる。
「プログラムの背後に人間がいると思っていましたが、まさかプログラム同士のトラブルが原因だったとは」という副所長のセリフからは、彼らの背後にあるものがあまりにブラックボックス化していて、その過程について誰一人言及することができないという有り様が読み取れる。
その矛先は「いま」の僕たちに対しても向けられているのだろう。
今、僕が享受している仕組みのほとんどが、どうしてそのように動くのかがまるで説明のできないブラックボックスとなっている。
そのブラックボックスの先には間違いなく人間がいるはずなのに、その人間と対話をすることができない。
そのような状況の中で、その人間に「わたし」の存在を証明することは果たしてできるのだろうか。
「仕組みを作る側の人間になればいいんじゃない?」という答えもありうるだろう。しかし、事態はそんなに単純なのだろうか。
劇中の「わたし」も見事に端末を使いこなしていたし、システムエンジニア(マニア)に意見することもできていた。
決して最新の技術に疎い人物が置いて行かれているわけではないのだ。
むしろそれを使いこなしていると思い込んでいる僕たちに、その矛先は向けられている。
僕はそういう恐ろしさを感じた。
 
ただし、この物語は「わたし」の死を持って閉じられるのではない。
劇中で死亡した「わたし」は、他の人物が舞台を去った後に、一人起き上がって踊りだす。
この踊りは事態を何ら解決するものでもない。これが何かの抵抗を示すものでもないと僕は思う。
でも、踊ることはできる。ここに見られるささやかな自由意志を、希望と呼ぶのだろうか。
 
ところで、「乙巳の変」における俳優(わざおぎ)の件、僕もすごく惹きつけられてしまった。
この話を知ってしまったからには、いずれ作品にしてみたいという気持ちが確かにくすぐられてしまう。
この場面を子どもの劇にしてみてはどうだろう。